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加藤大治郎
2001年、鈴鹿日本GP
MOTOGPデビュー年。NSR500で4サイクルに挑む。
1995年、ショウエイヘルメットからあるライダーのグラフィックデザインを依頼された。
加藤大治郎17歳国際A級チーム高武 この時点では恥ずかしながらあまり彼の事は知らなかった。若くて速い子がいるのでお願いします。という感じの話だった。初めて会った印象はとても頼りなげで大丈夫かなという感じがした。 どんなのが好きなの?と聞くと“黄色が好き”としか帰って来なかった。希望がよく分からなかったので、勝手にインパクトのあるデザインにしようと考え 第1作目のタコメーターをモチーフにしたデザインを作ってみた。
顎からサイドに掛けて 鉄板をイメージしたラインで構成した。このシーズン中、基本的なメーターのデザインは変えず、2種類ペイントした。大治郎はその後、全日本で脅速ぶりを発揮し大注目の選手になる。こちらも当初は担当したライダーなので気になる程度だったが、その活躍ぶりに最初のイメージはふっ飛んでしまい、デザインにも新しい試みを色々と試すよ うになった。またその飄々としたキャラクターに伴い“大ちゃん”と呼ばれ人気者になっていった。
1996年シーズンにはヘルメットデザインを一新した。後頭部に目を中心とした顔のデザインを採用した。後にダイジローアイと呼ばれる事になる この部分は、後続のライダーを威嚇する意味を込めてのデザインで、初期形をよく見ると実はキャップをかぶった顔になっているのである。キャップのつばの部分にちょうどDaijiroのネームが入っている。 気が付いた人はいるのだろうか。
以降、額部分の稲妻ラインとダイジローアイの基本的なデザインは変えずにアレンジされていった。 そして大治郎はこの年の鈴鹿のWGPにワイルドカードでついに世界デビューした。自分もその時は凄く興奮した事を覚えている。予選5位から決勝は3位表賞台を獲得。大物の誕生を世界中に予感させた。翌1997年、昨シーズンの全日本250クラスをランキング2位で終え、さあ次はチャンピオンだと誰もが期待した開幕前、なんと交通事故で足を負傷し てしまう。
2003鈴鹿日本GP
加藤大治郎選手。予選パドック
残念ながら全日本第1戦は欠場。しかしスポット参戦の鈴鹿日本GPにケガをおして出場。原田哲也、宇川徹など既にWGPにフル参戦し活躍している日本人ライダーを相手に激しいバトルを 展開し優勝してしまう。1998年、ショウエイヘルメットより大治郎レプリカが発売される。
大治郎のWGPフル参戦は2000年まで持ち越す事になる。 1998年には全日本チャンピオンになったがワールドフル参戦にはいたらなかった。待ちに待ったフル参戦。前年にデビューした中野真矢、3年目の宇川徹、大治郎と同時にフル参戦した松戸直樹など全日本のライバルが多数エントリーする事になった。この年ランキングを3位で終了。ルーキーオブザイヤーを獲得した。テレビで活躍する大治郎はレース中はものすごく速く、ルーキーとは思えない走りを見せていたが インタビューでは見ているこっちがはらはらドキドキだった。何か質問されても答えるのにじっくり時間をかけるので、答える前にインタビューアが次の質問 に移ってしまう事もあり、何か子供を相手にしているようで微笑ましかった。そんなキャラクターであるから世界の舞台に立ってもすぐにファンを確立して行った。
2003鈴鹿日本GP
この笑顔はもう見れない。
2001年、2シーズン目に入りマシンもブルーのテレフォニカカラーになった。 ヘルメットもダイジロウアイ、稲妻ラインはそのままにタイプ2に進化した。この年初戦から4連勝しランキングもトップをキープし続けた。ライバルは元祖天才ライダーといわれた原田哲也だった。黒いアプリリアの原田と、青いホンダの大治郎、対称的なイメージのふたりは何戦もで1位2位をわけあった。しかし最後には年間最多勝記録となる11勝をあげ参戦2年目で見事チャンピオンを獲得した。
2002年、最高峰MOTOGPにステップアップ。この年から4サイクルマシンと2サイクルマシンの混走となり、大治郎は2サイクルマシンのNSR500でのレースとなった。しかし序盤のスペインで2位に入り、速さを見せるものの4サイクルマシンとの差がシーズンが進むにつれ大きくなり苦戦を強いられる様になった。だが第10戦のチェコで4サイクルマシンのRC211Vを与えられ、ぶっつけ本番ながら予選2位を獲得、決勝でも2位に入りただ者ではないところを見せた。その後のレースは雨にたたられたり、他車のクラッシュに巻き込まれたりと歯車が合わず表彰台に上る事は出来なかったが、98年250クラスで獲得した のに引き続きトップカテゴリーでもルーキーオブザイヤーを手に入れた。
この年の8耐の事前テストで帰国した大治郎に、ショウエイの時期新型ヘルメットに伴うニューグラフィックの打ち合わせの為鈴鹿に向かった。  ショウエイスタッフと2人で伺ったのだが、相変わらずの大ちゃんだった。しかし最初に会った17歳の頃とは比べ物にならない逞しさと特別な空気を感じ させた。  このニューグラフィックには自分としても集大成的な意味合いを持たせていた。大治郎は全世界から注目され、バレンチノ・ロッシからもライバルと公言さ れていたし、ヘルメットも最新の技術で開発した新型であった。
基盤模様はペイントするのに大変な労力を必要とし、複雑さを極めていた。しかし遠目から見ても一瞬で大治郎と判別できた。もちろんダイジロウアイも稲 妻も健在である。これに大治郎が好きな黄色をいれ、当初、赤青の今までのイメージそのままのカラーでデザインした。
年が開け2003年、チーム体制が250でチャンピオンをとった時とおなじテレフォニカになり ブルーがチームカラーとなった。それに合わせて赤をメインカラーとしていたヘルメットもブルー主体となった。 シーズンオフからテストで好調が伝えられ、期待は高まるばかりだった。 日本人初のトップクラス制覇なるか。チャンピオンになる可能性が最も高い日本人として 誰もが注目していた。

2003年の鈴鹿のレースはオートバイに関わる全ての人にとって、忘れる事が出来ない悲しい物となった。素晴らしく晴れ渡った空に響き渡った“大治郎 クラッシュ!”の絶叫はレースの結果を忘れてしまう程、耳に残り消す事が出来ない。2週間もの間生死を彷徨い、大勢の祈りも届かず4月20日、遂に力尽き逝ってしまった。

26歳の若さであった。
資料協力:福山ゆうじ氏
若井 伸之
坂田 和人
原田 哲也
阿部 典史
加藤 大治郎
上田 昇
宇川 徹
アレックス・クリビーレ
玉田 誠
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